私の読書歴 その16 真実


中学の時に転校した先は、中能登の小さな町。
駅から農道の一本道を線路に沿っていくと
父の会社と社宅に行き当たる・・・
周りは、田んぼと山々。
そんなのどかなところで、思春期を過ごしました。
友達には恵まれくて、中学時代は辛かったけど、
自然に癒されていたのかもしれない。
だって、空をさえぎる建物はなにもないんですよ。
一面の空と、雪が彩る四季の風景は、
私の心を豊かにしてくれました。
北国の冬は、寒かったけど、それ以上に
山々が雪によって、表情を変える様を見るのが
なによりも好きでした。

そして、JRが一番メインの交通機関なので、
私は電車に乗って、買い物や通院をするようになりました。
そこで、電車の待ち時間に立ち寄るのが書店。
図書館に変わる、私の遊び場所となりました。
小さな書店しかなかったけど、
背表紙を見つめては、気になる本を手にとって、
あらすじと作者のプロフィールを見る・・・
高校時代も電車通学だったので、
毎日のように書店に立ち寄っていました。
その頃、私が必ずといっていいほど
見つけると買ったのが『自殺の手記』でした。
生きる、ということを真剣に考えれば考えるほど、
死を見つめながら、純粋に生きようとした、
人々の手記が、私には近い存在に思えました。

まず、手に取ったのが、高野悦子著の『二十歳の原点』に
なるのではないでしょうか。
彼女の日記は、『二十歳の原点序章』『二十歳の原点ノート』と
続きます。
それに、原口統三の『二十歳のエチュード』
奥 浩平『青春の墓標』、樺美智子『人知れず微笑まん』と、
思い出せる本は、こんな感じです。
そのような本を読み続けていたからでしょう、
私は世間の目や、世間一般の思考というものに
距離を置く思考を見につけてしまったように思います。

“いちご白書をもう一度”の歌詞を思い浮かべては、

  就職が決まって 髪を切って来た時
  もう若くないさと 君に言い訳したね
  
という、ような形で大人になりたくない、と思ったものです。

そして、私は彼らの手記を読みあさりながら、
こう考えるようになりました。
彼らは、真実を求めながら、真実を見出せないまま、
自分自身に絶望して、死んでいった・・・
私は、死なないで、彼らが見出せなかった、
真実を見つけ出してみせよう。





私の読書歴 その17 考える高校生


検索をかけてみたら、出てきました。
『新版 考える高校生』
この本は、高校文化研究会という
部活のなかで教材として使った本でした。
高校時代、文学部と美術部に所属して
文化祭前にしか活動をしていなかったのですけど、
高校3年というそろそろ、大学受験に
いそしまないといけない頃になって
入ったのがこの略して“高文研”
アカみたいな名前のところに入るのはやめなさい、って
親はいの一番に言いましたけどね、
私はそういう話には耳を傾けませんでした。
実際に顧問の先生は、学生運動をしていた経歴を
持つ先生でしたけどね、
でも、学生時代において一番私のことに
親身になってくれたのはこの先生になるのだ、と
今になって思います。

同じ頃、この部はなぜか同級生がよく集ってました。
そう・・・もしかしたら一番充実した
時を過ごしたのがこの部室だったのかもしれない。
中には、文学部にも所属していた子もいて、
文学部では交流がなかったのに、ここではいろんな話をした・・・
一番印象に残っているのは、世界をやり直すために、
核爆弾を落とした方がいい、なんていう過激な発言を
した子までいたこと。
みな、生きるということを真剣に捕らえようとしている子たちだった。
新聞記者を目指す子が二人いて、
そこには高校に入ってできた、親友も一緒にいたんだけど、
彼女は学校の先生になってやめた挙句、
ニューヨークに飛んでいってしまった。

実は、私が自殺の手記に興味を持っているのを
案じてくれたのが顧問の先生だった。
確かに自殺の手記は危ない本でもある・・・
特に私のようにそのような本ばかりを読んでいると
自殺願望のようなものが、徐々にできあがってくる。
そのことを先生も直感して、私に自殺についての
論文を書け、といってきた。
うーん、こまった。
何がこまったかというと、文学部にいたくらいだから、
書くことが好きだったけど、
自殺に関して言えば、まだ“答え”が出せていなかったから、
結論がかけなかったのだ。
自殺について感じることを多々、そこに記したのだと思う。
そして、結論は先生が付け加えた。

 自殺していった人は、自己には誠実であるけれども、
 他への誠実さに欠けている。

私がその言葉を理解したのは、20代に入ってからである。
その時には、何も理解することができなかった。
その論文は、入選か何かの賞を取ったかもしれない。
自分の名前を確かに見た記憶があるから。
でもそれを、はっきりと覚えていないのは、
私が書いた結論ではない、ということが
ひっかかっていて、自分の作品のようには思えなかったからだろう。




私の読書歴 その18 人間失格


この本と出会った時、
自殺願望をエスカレートさせることを
やめよう、と思うようになりました。
太宰治の、人間失格を読んだとき、
そこに自分そのものを見出したんです。
自分に自信が無く、自己卑下するばかり・・・
私なんて生きている価値は無い、と
マイナス思考を続けたら、
彼のように人生を投げ出すしかなくなってしまうだろう、
そんな風に感じました。

自分のマイナス思考を方向転換しないといけない、
とそう感じたのがこの本との出会いでした。
自分を見ているようだと思っているのは
私だけではなかったのですね。
友達にこの「人間失格を読んだことがある?」と聞いて
感想を聞いてみたんです。
私と同じように、人間失格の本に自分を見出した人も
少なくなかったんです。
それとは反対に、この人間失格を「嫌いだ」だという人もいました。
そういう自分を見たくない、と思うからでしょうか。
その時は、何も考えていなかったから、
人間失格の感想が2分されるのが、不思議でした。
“自分”しか見えてなかった、私が、
周りを見ることができるようになったのが
この本との出会いかもしれません。





私の読書歴 その19 言葉にならない想い、伝えたい


栗本慎一郎が、縄文時代の人々は、
言葉を所有しておらず、
言葉以前の思考が、そのままただよって
その人が来る以前に、その人が来た、とわかるような
コミュニケーションを取っていたと書いていました。
この部分だけが、なぜか鮮明に私の
右脳にインプットされています。
以前、縄文時代の人々は、人を埋葬するときに
花を飾っていた、とテレビで放映されていましたが、
それにも通じてくるのだと思います。
その時代の人々がもっていたものを、
人は言葉を所有することによって
失ってしまってしまっているのではないか、と思うことがあります。

さて、最初に私が手づくりを始めたのは、トールペイントでした。
義姉さんが、ステンシルの講習を行う花屋さんに勤めていたのが
きっかけで、ステンシルの1日講習を受けて、
その絵の具や道具を自分で買い集めたんです。
その時に描いた、独学で描いた最初の作品が、
赤毛のアンを思わせる、少女たちを描いたものと、
くまを抱えた天使の少女でした。
天使の絵は、母に贈ったんです。
すると不思議なことがありました。
脳溢血で倒れて次第に欝に陥って言葉を話さなくなった母が、
その直後に電話をよこしたんです。
後にも先にも母が車椅子に座って
電話をしたのはその時だけでした。
そして、鳥取に住んでいた私と横浜に住む
妹にも電話をしたんです。
その時だけは、以前のおしゃべりな、母でした。

その後、私の手づくりは、トールペイントから
カントリードールに移行しました。
絵筆を持つのは、子どもたちが寝てから夜中にしか
集中してできなかったけれども
針を持って、縫い物をすることは、家事育児の合間に
少しずつすることができたからなんです。
さて、実家に帰り、母のベットの傍らでドールを作っていると、
母がそのドールを欲しい、と言いました。
ちょうど私と娘たちを思わせるドールが3体仕上がる直前だったので、
それを母に贈りました。その翌日のことです。
母が、「小人がいる」というのです。
小人が、大やけどをした足に薬を塗ってくれている、と。
そのやけどした足とは動かなくなった、左足のことでした。
その話を父が聞いたなら、またいつもの幻覚が始まったのだ、と
思って笑い飛ばすところでしょうけど、
私は母が、ドールを喜んで受け取ってくれたのだな、と感じました。
私が、手づくりを続けるのは、言葉にならない想いを
そこにたくしているからなんです。




私の読書歴 その20 二十歳のエチュード


告白。−僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、
僕に残された仕事は、“人生そのもの”を芸術すること、だった。


原口統三の残したエチュードのその一番最初に書かれた文章がこれ。
私は、この一言に惹かれたのです。
人生を芸術する、これこそが一番大切なことなのだと私は感じました。

その手記を残した彼に、“立ち去る者”と題して、
巻頭に、森有正が彼にむけて、エッセイを書き記しています。

真の批判的精神は明晰な観念を一度現実、精神からみればけっして
明晰ではない現実によって濾過しなければならない。
芸術と真の認識との根本的相違がそこにある。これはけっして、
自然科学の実験のことだけを言っているのではない。
精神の操作は常にそうなければならぬというのである。
それは現実から抽象された明晰な観念を今一度現実の汚濁と混沌との
中に突き戻すことである。これは精神にとっては一種の自己否定である。
しかし、これを行わなければ、私どもは健康で実践力のある原理を
把握することができない。
もし観念が現実との検証に耐えなければ、それがいかに明晰であり、
美しくあり、整合的であっても捨てなければならぬ。
これはある意味で自己をすて、自己を否定することであって、
異常な精神の緊張と自己批判と覚悟とを必要とする。
かくして得られた原理のみが現実を徐々に、しかし力強く
動かしていくことができる。


昨日まで、右脳に残っている私の記憶をたどりながら、
読書歴を書いてきていたけれども、曖昧な記憶がもとであることが
ひっかかっていました。
そこで、今朝書庫に入って、私の本が残っているものを見てみたら、
出てきたのが、この『二十歳のエチュード』でした。
原口統三との縁よりも、本当はこの森有正という方との出会いのほうが、
大きかったのかもしれません。
しかもこの方の本は、多くを知りません。
それでも十分だったのです。
この文章に記されたような生き方をしている、
森有正という方を知ることによって、
私は生きる、ということを学んだのですから。

しかし、あの頃の私はまめだったようで、
本を買った日付と書店名を本に記していました。
(父の真似だったのかもしれません。)
その本を手にした、私は17才でした。





私の読書歴 その21 明後日の手記


20年数年ぶりに読んだ本の世界は、
タイムスリップしたみたいな
感覚に覆われます。
よく知った本だと思っていたのに、
いつのまにか印象が変わってしまっていました。

読み手の意識が変わると、
その本からうける印象もまた変わるのでしょう・・・
“明後日の手記”・・・この本は、小田実が、
17歳の時に書いた処女作でした。

 私はもはや明日すら信じることは出来ない。
 強いて真実とすれば《明後日》を信じる他はないのだ。

という言葉で、その小説の巻頭は飾られています。
その言葉が、私を引き込んだのです。


 ぼくは、判らない、何が真実なのか?この世界では、
 もうあらゆることが真実でないのだろうか?
 あらゆることが真実であることを止めてしまったのだろうか?
 かつて真実であり、真理であったことすべてが
 そうでなくなったのだ。今では人はもう真実の仮面を
 つけることさえ止めてしまった。
 真実に見せかけるのではなく、虚偽がつみ重なって、
 それが真実そのものを形成しているのだ。形成されて真実、
 形成された真理―昔、真理は万人のものだった。
 あらゆる個人に、あらゆる国家に、全世界に共通するものだった。
 けれども今はそうではない。いつのまにか、それは
 言語のように限られてしまった。


私の記憶に残った文章とは、この部分なのです。
これは戦争体験をした、“ぼく”が
戦後の価値観の崩壊を描いたものでした。
でも・・・と今私はこの文章を読みながら、思うのです。
戦後の価値観の崩壊は単なる序章であって、
戦争の記憶がうすれゆく今の時代において、
その真実は、ますます形を変えてしまっているのでは
ないでしょうか?


私の読書歴 その22 《神》


《神》ってことばが英夫さんに判る?
 《神》っていうのは《忘れる》っていうことなの。
 みんな忘れるのよ。自分自身さえ忘れて愛するのよ。
 それが神なの。判る?けれどね、私は忘れることが出来ない。
 私自身を忘れるなんて―そんなことは出来そうにないのよ。
 

明後日の手記の中のもう一つのテーマは、神でした。
戦争が始まることで、神を信じる人々の心に
動揺が生じるのです。神はどこに行ったのだろう・・・と
人々は、考えはじめます。
そして、神を見捨てる人が出てくるのです。

妹と私の通った幼稚園は、クリスチャン系の幼稚園でした。
その後、小学校に入っても日曜学校に通い、
妹は高校の頃、洗礼を受けてクリスチャンになりましたけど、
私は小学校の時の引越しを機にその後は、
日曜学校に足を運ぶことはなかったのです。

それは、私が盲目的に神を信仰するような
タイプではなかったからかもしれません。
忘れる、とは盲目的になるということなのでしょうか?

私は子ども心に覚えているのです。
日曜学校の場は、私にとって居心地のよい場所では,
なかったです。
牧師の言葉は私の中に少しも入って行きませんでした。
たぶん、私が心を閉ざしていたからでしょう。
私は、幼い頃、自閉症に近い心を持っていたようです。
常に外界に対しては、おびえていたのだと今は思います。

ですから、教会で聞いた神という言葉よりも、
この小説の中で読んだ、《神》の方が
私の心に残ったのです。
その言葉の意味を深く考えることはしなかったのですけど、
ノートに書きとめたのはそういうことだったのでしょう。
そして、それが遠藤周作との『沈黙』との出会いへと
つながっていったのかもしれません。




私の読書歴 その23 沈黙


私は、その小説を読んだとき、
沈黙する神の存在を知った・・・
知ったというよりもまるで、
インスピレーションが訪れるかのごとく、
感じてしまった、という印象の方がある。

今、沈黙を読み返すと、そこには
「神よ、何故あなたは黙っておられるのですか」という
絶望の声しか描かれていないように見える。
けれども、私はそこに
神はいない、ではなく、
沈黙する神の存在を感じた・・・
それが、私と神との初めての出会いだった。

あまりの感動に、クリスチャンである妹に
その本のことを話した。
けれども、妹はその本は、異端の書だから
読んではいけないと言われ、
それ以降、私を異端者だと思っていたらしい。

遠藤周作の著書の中に描かれた、
神そして、イエス像というものが、
キリスト教の求めている姿と違うということらしい。
けれども私は、遠藤周作の描くイエスが
逆に真実の姿に近いのではないか、と思った。
そんな風に思う私だからこそ、
日曜学校にもなじめなかったかもしれない。

本当は、神は、
水墨画に描かれた空白の部分に
存在しているのかもしれない。
人々は、いろんな神を描き出し、
いろんな宗教を作り出している。
けれども神は、その本当の姿は、
見えない空白の姿ままで、
人々が自分の思いのままに、
空想するにまかせている。




私の読書歴 その24 風と共に去りぬ

レット・バトラー・・
自分の力で生き抜いてきていた男性。
お金をたくさん持っていたけど、
それに価値をおいてなかった・・・
多くの女性を魅了していながら、
彼の心は、常にスカーレットのもとにあった。

それなのに、
スカーレットが、自分の本当の思いに
気づかなかったがゆえに
二人は離れ離れになる。
レットは、傷つくことに疲れて
彼女のもとを立ち去った。
彼女が本心から、レットを求めたときには、
もう遅かった・・・

それからの二人は、互いを求めながらも
すれ違う人生を送る・・・
偶然が二人を引き寄せる時、は、あったのに、
決して素直になれなかった。

ただ、本当にスカーレットが危険にさらされるときに
常に彼はあらわれていたように、
そのクライマックスの場面に、彼は登場する。
燃え盛る炎の中、彼は、スカーレットと二人の娘を
連れて逃げ出すのだ。

二人は、再婚を意識して
別の出会いを得たにも関わらず、
そこに求めているものを見出すことはできなかった。
魂が引き寄せる、出会いではなかったから。
「嵐が丘」の二人にも似ている。
同じ魂を持つ二人・・・





私の読書歴 その25 スカーレット


我が儘っていろんな意味合いがあるのだと思います。
『風と共に去りぬ』の続編『スカーレット』は、
公募で別の著者が書いたものなんです。
だから、イメージが少し変わってきています。
訳をする方も、違ってますし、ね。
後半のスカーレットはね、落ち着いてくるんです。
我が儘奔放なだけだった彼女がね、母親の模倣ではなく、
母親の求めていたものに理解をしめすようになるんです。
ただ、形だけ淑女を装っていた彼女がね、
形ではないものに目をむけるようになるんです。
人が成熟するってこういうことなんだな・・・と
そのストーリーを読むうちに感じるようになりました。

メラニーがスカーレットに強い信頼を寄せていた、
その真実とはね、スカーレットが偽りを嫌い、
自分に正直に生きているからだと思います。
人は周りを気遣うあまりに自分を押し殺して、
世間にあわせた生き方しかできなくなっている・・・
でもスカーレットはそんな世間に形だけしか合わせず、
いつも自分の思うとおりに生きていた。
けれども、その生き方を貫くあまりに
一番自分にとって大切な存在であった人を失ったことが
きっかけで、変わるようになるのね。
我が儘を通すだけではレッドを取り返すことができないから。



私の読書歴 その26 親業


その本を見たのは、短大の図書館で、でした。
まだ、トーマス・ゴードンの親業が、
日本で今のように知られていなかった頃で、
私は祖父が、土産でもってきた親鸞の絵本を
想像して、宗教の本かしらん、と思いながら
手にとって開いてみました。

そして、その本を読破したあとは、
書店にて購入しました。
その本に書かれた“受容”という一言に
惹かれたのです。
その受容こそ、私がずーっと求めていながら、
自分の親からは得られなかったものでした。
「なんでこんなこともできないの」
そう言われ続けて育ってきたものですから、
母にこそ、この本を見て欲しいと、
母に手渡したことがあるのを覚えています。

けれどもそれから、10年の年月を経て
親業が日本に流行り始めているのを
知ったとき、それは、
私が求めているものとは違ってきていることを
感じました。
マニュアルでしかないようにみえるのです。
親が子を受容するためのマニュアル。

そして、現実はこうです。
親が子を受容しているように扱いながら、
子どもたちをコントロールするためのマニュアル。
私が親しくなった友達は、親が親業を学び、
そのインストラクターになっていました。
その親の元に育った彼女も当然、
親業を学んで知っています。
でも彼女は、自分の子育てに自信がないのです。
頭では子どもとどうコミュニケーションをしたらいいのか
わかっているのです。
けれども、心が伴っていないことを
彼女自身が知っているのです。

受容は、マニュアルではないんです。
もちろん、すべての人がそうではないでしょうけど、
マニュアルにすることで、形だけまねをして
大事なところが抜け落ちてしまわないかと
いう危惧を感じてしまったのを覚えています。




私の読書歴 その27 春をして君を離れ・・・



アガサ・クリスティーのミステリー小説は
早川文庫で愛読していましたが、
ミステリーではない、小説を手にしたのは、
この本が始まりでした。

春をして君を離れ・・・

詩の様な題名は、シェイクスピアの
十四行詩から取ったもので、
この題名に惹かれて読み始めたものの、
一気に読んでしまいました。

一人の主婦が、列車の旅の途中で
災害に見舞われて立ち往生します。
その日常から離れた空間の中で、
彼女は自分を振り返るようになります。
一見幸福そうに見える彼女の家庭・・・
でも実は、我が儘な彼女に
周りがあわせているだけ。
次第に自分がいかに周りの家族の気持ちを
考えないで自分本位に、行動していたかを
走馬灯のように思い起こすようになります。

夫の前に帰りついたら、
今までの私のことをあやまろう・・・
そのように彼女は、心に固く決めるのですけど、
いざ、電車が駅に着いたとき、
彼女は別の選択をし、それまで見えていたものを
遠くに追いやってしまいます。

アガサ・クリスティーのサスペンスの中でも
登場人物たちの心象風景が
あちらこちらに鋭く描かれていたものですけど、
このジェーンの深層心理は、
誰の心にもあるものではないでしょうか。
ただその自分と真正面から
向き合えるのか、そうでないのかによって
人生は大きく変わるのでしょう。





私の読書歴 その28 インナーチャイルドの叫び


「あの花のいうことなんか、きいてはいけなんかたんだよ。
人間は、花のいうことなんていいかげんにきいてればいいんだから。
花はながめるものだよ。においをかぐものだよ。ぼくの花は、
ぼくの星をいいにおいにしてたけど、ぼくはすこしもたのしくなかった。
あの爪の話だって、ぼく、きいていて、じっとしていられなかったんだろ。
だから、かわいそうに思うのが、あたりまえだったんだけどね・・・」
                      〜星の王子さま〜


ぼくね、やっとわかったんだ。
星の王子さまがいっていたようにね、
あのバラの話に耳を傾けていたらいけないってことがさ。
ある人は、いうんだ。「そういう君はどうなんだ」
そういわれるとね、それ以上いいたいことがいえなくなるんだよ。
だってさ、ぼくがたいしたやつではないことはぼくが一番よく知ってる。
またある人はこういったんだ。
「君は知らないうちに人を傷つけている」・・・でも、
ぼく、やっとわかったんだ。
そんなふうに言っている人にかぎってね
自分のことをかえりみているんじゃないってこと。
それなのに、ぼくは、言われたとたんにふりかえるんだ。
自分のこと・・・そして、ぼくが人を傷つけているかもしれないって
思うんだ。

本当はさ、そういう人たちは、自分を守ってるんだ。
自分が傷つきたくないもんだから、そんなふうに言うんだ。
本当に自分を知っているやつは、そんな言葉を使わない。
そして、言われたとおりに受け入れれば、
言われたほうが、傷ついているんだ。
傷つきたくなくて虚勢をはってるだけなんだって
読み取ればよかったのにね。それがわからなかったんだ。
なぜって、そういう思考回路のしくみがぼくのなかには
なかったから。
でも、ぼく、そういう言葉にふりまわされないことにしたんだ。
ぼくが傷つけるとしたら、それは、ほんとうのことをいうからなんだ。
そして、ほんとうのことを受けとめる、には勇気がいるんだよ。
真正面からその言葉とむきあう勇気さ。
そして、そのとおりに実行する勇気。





私の読書歴 その29 神話


ジョセフ・キャンベルの本は、
図書館で借りて読みました。
今手元にないので正確な記述を
思い起こすことができません。

ジョセフ・キャンベルの本は、
神の絶対性を解くのではなく、
人々の間に語り継がれてきた、
さまざまな神話の中に共通する要素を見い出し、
そこに隠されている本質を取り上げています。

それは、あらゆる英雄伝説や
私たちが慣れ親しんできている、
冒険やさまざまなストーリーにも
つながってきます。
ミヒャエル・エンデの『モモ』
それに宮崎駿の『千と千尋の神隠し』を
見たときには、
そのジョセフ・キャンベルの神話の
イメージを思い出しました。

どの神が正しいのか、ではなく、
神話から私たちは何を学ぶべきなのか、
という視点が大事なのです。
そのように物事を大きな視野から
俯瞰していくことの大切さを知るきっかけと
なったのがジョセフ・キャンベルの
『神の仮面』『千の顔を持つ英雄』
それに『神話の力』等の著書でした。




私の読書歴 その30 いかにして超感覚世界の認識を獲得するか


ルドルフ・シュタイナーの
『いかにして超感覚世界の認識を獲得するか』の本は
図書館で借りて読みました。
あの頃の私には、買うには高価すぎたんです。
半分は理解できなかったけれど
前半の文章は、いくつもノートに書きうつしました。
いかにして客観的で冷静に自己を見つめられる、
自分であり続けるか、ということが大事である、と
そこには記されていました。
それは、霊的なものにふれれば最初は、
霊にふりまわされることが往々にしてあるために
自分をコントロールできる自分であれ、と
いうことになるのではないか、と今は思います。

昼間の日常の騒がしさから、解放された時を
大事にすること。
その非日常の空間にて自分と向き合う・・・
そういった、瞑想の基本的な概念を
そこで学んだように思います。
超感覚世界とはいうものの、その本に書かれているのは、
いかに客観的な認識の目を
自分の中に育てていくのかということに徹していました。

シュタイナーは、特別な力に重きをおいていません。
そのようなものは、本来人が備えているものなのだ、という
観点にあります。
植物からたちのぼる湯気のような、
エーテル体(オーラのようなもの)を
人は誰もが見ることができると書いてあり、
それを読んで観葉植物を、
目をこらして見つめていたことを覚えています。

けれども本当に興味を持ったのは、
シュタイナーが教育の中で、
その魂を育てていくということでした。
ボランティアや労働体験のような
体験学習に重きを置き、
自我と向き合うことを授業の中に取り入れていきながら、
子どもたちの中の本来育てていくべきものを
育てていく・・・そのような教育だと感じました。
それでいて、私がシュタイナー教育に
はまりきれないでいるのは、
シュタイナーが本来重要視していたのは、
教育の方法論ではなく、
子どもたちの魂そのものと向き合い、
その魂をはぐくんでいくことだと思うからです。
それは、ドイツの地にまで行かなくても、
その子に与えられた環境の中で
本来できることだと思うんです。
シュタイナー教育については、
また後の機会に触れてみようと思います。