anneちゃん教育を語る その1


最近、学校でのいじめや履修科目の不足など
さまざまな問題が起こるにつけて、
とても悲しい気持ちになります。
問題が起きると学校側はその対応に右往左往しているだけで、
本当は何が問題なのかを見ていません。
自分たちを守ることしか考えていないように見受けられます。
実はこの自分を守るということこそが、
子どもたちに悪影響を与えている最たるものだということが
わかっていないのでしょうね。

子どもたちのよい教材を与え、
高い水準の教育を施すことで
子どもたちがうまく育っていくものでしょうか?
実は学校で教えられる以上に、子どもたちは、
目の前の現実から多くを学び取っています。
けれどもその教科書である大人たちが、
自分らしい生き方を見失い、
悪いのは、周りのせいだと事件ばかり起していてよいものでしょうか。
大人がわき見運転の事故を真似して、
登校途中の児童の列にわざと車を突っ込むような事件を
起こす場面を見れば、自暴自棄の状態にある少年は
何をしたっていいと受け取りかねません。
ストーカーや不倫が日常のひとこまのような
ドラマを見続けていれば、
そのような行為はしていいんだと、
やはり自然に脳にインプットされていくでしょうね。

孟母三遷の教えのとおり、
子どもたちは目の前のものを真似て、学んでいくわけですから、
まず大事なのは自分がどのような生き方を選択するかに
かかっているのだと思います。





anneちゃん教育を語る その2


好評につき、しばらく書いてみようと思います。
興味をもってくださった方は、
あんのおしゃべり総集編を見ていただければよいと思います。
つたないながら、感じたことをその時々に書き綴ってきています。

私自身が、まだ子育ての途上にありますから、
大きなことはいえません。
私が幼児期の子育ての真っ只中に
シュタイナー教育と平井雷太さんの“〜しなさいと言わない教育”
それにアドラー心理学から特に学びを得ました。
それらの教育もかじった程度かもしれません。
けれども、子どもたちの中に少しずつ根付いているものを感じます。
それは何かと言うと、子どもたちは自分で学ぶ力を持っている、ということです。
私たち大人は、子育てにおいて何をしていくのかといえば、
あくまでも支援、なんですね。
子どもたちの学びとる力を伸ばしていく、ということなんです。

子育てとは、本来、自分育てに通じます。
幼児期に完結するものでも、学童期に完結するものでもありません。
生涯学習という言葉で表されるように、
自分自身をはぐくんでいくこと、に通じているのです。
ですから、〜しなさい、と言われなければしない、子では
意味を持たないのです。
え、じゃあうちの子たちは何でもできる子か、ですって?
いえいえ、まだまだ途上にあります。
ときには悪戦苦闘もしています。だからこそ感じるんですね。

学ぶということは、決して知識として得ることではありません。
体験の中で、習得していくことを意味します。
知識とはあくまでもそれを、助ける役割をもっているに過ぎません。
いつのまにか知識を習得することがすべてとなり、
生きるということそのものがおざなりとなってしまっています。

今私が、語りたいのは、子どもたちが目の前にある現実から
学びを得ているということ。
そして、私たちがそのために何ができるかということなんです。
私が心がけていることは、子どもたちの学びの瞬間を
大切にするということです。
これは、子どもに限ったことではないのかもしれません。

 場を見て、その時々に応じて必要な対応をする。

一言で言えばそういうことになります。
でもそれでば、抽象的過ぎますよね。
長くなりますので、少しずつ書いていこうと思います。





anneちゃん教育を語る その3


〜フィルター〜

情報があふれている今日ですけれども
人は、その情報を編集して受け入れています。
たいていは自分が可愛いいですから
自分にとって都合のよいように解釈して
受け入れています。
ですから、その情報を受け入れるときの
フィルターがとても大事な役割をもってきます。

本来、そのフィルターとは
必要な情報だけを“取捨選択して取り込む”ために
用いられるものなのだと思います。
そして情報を、感情を交えずに
客観的に処理することが大事なのだと思います。
ところが今あふれている情報を
どのように処理したらよいのかわからないまま
受動的に受け入れ、スポイルされている人々も
多いのではないでしょうか。

かつて日本に生きる人々は、
世間体というものを気にしていて、
家長制度のような封建的な教えに縛られて
生きていました。
それが民主主義の到来によりかつての価値観が崩壊し、
資本主義のような欧米の価値観がはびこり、
何を重んじて生きればよいのかわからなくなってきています。
そのような背景の下、親になった人々は、
世にあふれている育児書を片手に
右往左往しながら育児に取り組んでいます。
核家族化がすすみことで親から子へと伝えられてきた、
子育ての知恵も分断されつつあります。
そうなるとその人自身が持っている価値観のもとに
子どもだちは育てられることとなります。

そして子どもたちはその親の映し鏡のような
現実の中を生きていくようになります。
それは自我が、自らで判断するようになる頃までは、
一番影響力を持つことでしょう。
また、その人自身の思考する力が育っていかなければ、
その後も、周りにスポイルされ続けていくことでしょう。
引きこもりをする人々、欝に悩まされる人々とは、
自分を取り囲む現実に適応できないことの表れでもあります。
けれども現実を変えることはむずかしくても、
自らのあり方と対応を変えることで
どのような現実をも乗り切れるようになっています。
自分が変われば、世界が変わるとはそのようなことを
意味していますから。

今日の写真は、家の前のイチョウの木です。
すっかり街中も色づきましたね。




anneちゃん教育を語る その4


〜心の目で見る〜

何よりも大切なことはここから始まります。
必要な情報だけを“取捨選択して取り込む”というと言葉が硬いですよね。
これは、理論的に頭で考えるというのとは異なります。
むしろ、私の大好きな“星の王子さま”の言葉を借りて言うならば、
心の目で見るということに通じます。

「あの花のいうことなんか、きいてはいけなんかたんだよ。
人間は、花のいうことなんていいかげんにきいてればいいんだから。
花はながめるものだよ。においをかぐものだよ。ぼくの花は、
ぼくの星をいいにおいにしてたけど、ぼくはすこしもたのしくなかった。
あの爪の話だって、ぼく、きいていて、じっとしていられなかったんだろ。
だから、かわいそうに思うのが、あたりまえだったんだけどね・・・」
                      星の王子さま より抜粋

星の王子さまはあるときバラのことを思い浮かべながら、
自分の心象風景についてこのように語ります。
星の王子さまは、バラについてその我が儘さなところを
良し悪しといった判断をしたのではありません。
自分を振り返り、自分がどうすべきであったのかを考えています。

星の王子さまは、自分の星に帰り、
バラの花ともう一度向き合ったときには、
今度は違った行動を取るでしょうね。
それは、たぶんこうでしょう。
バラの花がどんなに我が儘なことをいっても、
君は寂しかったんだね、とその寂しさを受け止めてあげるんです。

「僕がなんでこんなことを言われなくちゃいけないんだ」と
自分を守っているうちはできないことでしょうね。
でも星の王子さまは自分を守ったりしませんでした。
あのとき自分がどうすべきであったのかを
振り返り、そしてその答えを得たのです。
情報にスポイルされて自分を見失っている人々に
必要なものこそ、この自分を振り返るということに
なるのでしょうね。




anneちゃん教育を語る その5


〜なりたい自分になる〜

星の王子さまの本は、子どもの頃から
何度も繰り返し読んでいました。
小さな子どもはあきることなく
繰り返し同じ絵本を読むという行為は、
毎日遊園地にいって、ブランコや滑り台をする
遊びに通じるんだそうです。
何気ないことですけど、その行為の中から
学んでいることがあるんですね。

そのお話の中に印象に残るシーンは多々あります。
たとえば、夜になると電灯に火を灯し、
朝になると電灯の火を消す人。
それにむずかしい計算を一日中繰り返して
やっている人。
子どもたちが大人たちを見ているように
星の王子さまも見つめています。
でも違うのは、王子さまは、それって何かへンだよって
子供心に感じていて、
その感じたものを大事にしていることでしょうね。

いつのまにか子どもたちが大きくなると、
仕事をするのが当然だから、と仕事につきます。
いまはフリーターという自由がありますから、
以前とは少し違います。
それはある意味進歩なのかもしれません。
そんなの、変だよって立ち止まっている人たちを
意味するのでしょうから。
けれどもその先が、本当は大事なんですよね。

私は、何をやりたいのだろう?

子育てをするときに親たちは、
子どもたちに“いい子”をあてはめたり、
「おとうさんのようになりなさい」とか
「おとうさんのようになってはだめ」といったように
子どもたちに方向付けをしてしまうことが多々あります。
しかもそれは無意識のうちで行っていたり、
自分のしている子育てに疑問を持つことなく、
当然のごとくやっていたりします。

そして子どもたちは、そうした親の期待にこたえることが
すべてのように思ってしまいます。
親の敷いたレールの通り生きてしまい、
自分のなりたいものがわからないまま
大きくなっている人が多いのではないかと思います。
そんな風にして大人になると今度は、
家庭を持ち、妻と子どものために、
もしくは自分の子どもによい教育を受けさせるために、と
働くことに追われた日々を送ってしまうことになるんですね。

なりたい自分になれるように
子どもたちに配慮していくためには、
まず自分自身がなりたい自分になるということが
大事になってくるんですよね。
そうすれば、何が必要なのかわかってきますものね。




anneちゃん教育を語る その6


〜死に急ぐ子どもたち〜

死にたがる子・・・・
そのような題名に惹かれてその本を読んだのは、
学生時代のことです。藤原審爾さんの作品です。
この作品を読んだのは高校の頃。
この頃私は本に埋もれる日々を過ごしていて、
心にとまった文章をノートの書き記していました。
そのノートからの抜粋です。


人間人間というがだね、人間もただの生物なんでね、
ほかの生物と同じような生の機能をそなえていてだな、
それで生きているんでね。それを忘れているんだよ。
そういう本質的な機能を育ててやらないでだ、
五つ六つになると幼稚園に入れて、小学校に行かせてだな、
この社会に適応させる社会動物をつくりはじめるんだ。
教授が言ったように、人間の子はその他の動物のように
親を真似て育つんだが、その代わりを幼稚園や小学校に
させようとするんだ。
ところが、そこにある教えは多様すぎる価値観による教えで、
どれが自分にとって必要で、よいものか
選択することが出来ない。ここが問題なんだ。
選択の能力を育てないで、幼稚園におっぽりだすのがだな。
社会アニマルにすんなりとなれる子はいいが、
正常で人間という生きものの多面性を備えた生の機能を
ちゃんと備えてきた子は、その本質的な成長を抑圧されるんで、
巣から落ちたようになる可能性が多いんだな。
そういう子はだ、生か死かのはざまにおかれているんで、
選択をしいられるような状況におかれると、たとえば
受験してもパスしそうにないというような悩みの中で、
受験を考えあぐねるというと、悩みの苦痛から逃れるために、
生か死かという選択の場へたちまち追い込まれるんだ。


私が伝えたいことはすでにここに書かれています。
今朝の新聞に文芸春秋の広告が載っていました。

『子どもを殺すのは教師か親か』
『家畜化する子供たち』

なんとも衝撃的な見出しで、親たちの目とひきつけます。
でも・・・・と私は自分の高校時代を思い出しました。
あの頃の子どもたちも死に急ぐ子どもたちが急増し、
マスコミも取り上げておりました。
死に向かっていく人々を主人公にした小説をいくつも読んだ記憶も
あるんです。
子どもたちが警告しているのは今も昔も変わりません。
それをどこに問題があるのかと人は問います。
ただ、問うだけで子どもたちの本質に目を向けないことの方が
問題のような気がします。




anneちゃん教育を語る その7


〜子育ての原点〜

子育てのことをあれこれ振り返ることができるのも
そろそろ子育てが一段落したからということもあるのでしょうね。
私が子育てで一番大変だったのは、次女を出産してからでしょうか。
何しろ次女がお腹にいるときに、母が脳溢血で倒れ、
その後弟も、リストラされて実家に戻ると
引きこもりをはじめてしまいましたから。
けれども逆に、母と弟のことがあるから、
子育てで苦しい時期をも乗り越えていかなきゃとも
思っておりました。

それでも私が幸運だったのは、
母の手を借りることができなくなった二人目の出産のときには、
子育てサークルにて出会った友だちがいたことでした。
彼女は、私の家から車で5分ほどのところにおりましたから、
その頃車の免許を持たない私のために動いてくれました。
それから、出産後まもなく動けなかった私の元に
義姉さんが食事を届けてくれたことも本当に助かりましたね。

知識よりも一番大事なのはつながりでしょうか。
あの頃はよく本も読んでいましたけど、
本で得た知識よりも大切なものは、
子育てサークルの集会に参加して、
子どもたちをそばで遊ばせながら、
ぺちゃくちゃとおしゃべりする場だったり、
子育て講座という名で幼稚園が主催してくれた
座談会の場で心理学の先生(子育て中のお母さんでもありました)を交えて
いろんな人の悩みや体験を話す場だったりしたのだと思います。
一番親しかった友だちは保母さんをしていた方ですから、
彼女のかかわり方を目で見て学んだところも多々ありました。

あの頃、スーパーがあり、バスの通る大通りへは徒歩15分ほど
離れておりました。
しかも書店はありませんでしたし、図書館もありません。
ところで、その家に移り住む前にいたハイツにいた方が、
車を運転できない私のためのバスの回数券をゆずってくれていたので
私は子どもをおんぶしてバスに乗り、
ブックオフまで行くようになりました。
その時最初に出会ったのがシュタイナーの本でした。
忘れもしません。しかもそのとき手に取った本は、シュタイナー教育ではなく、
『薔薇十字の神智学』というダヴィンチコードの内容に
通じてくるような本でした。
けれども根本はそこにあると思っています。
魂を育てること。
それが私の子育ての原点ですね。





anneちゃん教育を語る その8


〜絆〜

子育ての一番大変な時期に、
父親がその子育てにどれほど関わったかが、
夫婦のつながりを築く大きな要因となる・・・
というような内容の文章を婦人公論の雑誌にて目にしました。
そのとき父親が関わらなかった場合の離婚率が具体的に
パーセンテージで記されていたのですけど
その数字は忘れてしまいました。
というのは、その本を読んだときには私もまだ子育ての
真っ最中で、その文章が目に止まったもの
自分のことだとあてはめる余裕がなかったのです。

でも、我が家もその典型的な離婚をすることとなりました。
その文章を読んだときには、離婚などまったく眼中にありませんでした。
長女が保育園に入って最初に仲良くなった子どものお母さんと
話す機会がよくあったのですけど
そのお母さんが私の身近なところで最初に離婚したお母さんとなりました。
その頃もまだ私の中には離婚の「り」の字もありませんでした。

それが突然、私の中に生まれました。
「だめかもしれない」・・・そのような思いが突然やってきたのです。
深層心理の世界で、私はストレスをためこんでいて
アップアップの状態だったのに表層の私は、
いい妻、いい母を演じ続けていてわかっていなかったのです。
それは2001年5月のことです。
それから数ヵ月後の私は、家にいることが厳しくなりました。
休日になると家にいられないのです。
覚えているのは、レンタルビデオを返しに行った時。
帰りたくなくて駐車場で泣きそうな思いを抱えてしばしの間過ごしていたんです。
海に行きたいとひたすら、思っていたのもその時期でしたね。

子どものためにどうして夫婦を続けられないのか、と
私は責められました。
普通は、子どものためにと辛抱しているじゃないかと言うのです。

本当にそれでよいのでしょうか?

私は、子どもたちには離婚する理由がわかるように
それまで表面に出ていなかった夫婦関係のずれを
文句という形で子供たちの前であえて、言うようになりました。
そして、離婚後は我が家が母子家庭であることを
学校にも近所にもオープンにしました。
「母子家庭のようには見えませんね」と離婚後受け持った小学校の先生は、
最初の個人懇談にてこう言いました。

本当に大切なのは、形ではなく絆なのだと、
子どもたちは今、彼と私の関係を見て学んでいることと思います。
私はこの“絆”というものを
子育ての大切なポイントの一つに掲げたいと思います。
人は一人では生きていけません。
人という字は支えあうようにできているように・・・
それならば、個人が集まった最小の単位である
家庭という中でそのつながりを学ぶことは
とても重要になってくるのだと思います。





anneちゃん教育を語る その9


〜魂を育てる〜

魂は星の王子さまでいう、
心の目につながっています。
心の目が豊かな人は、魂も豊かに育っていると
思ってまちがいがないと思います。

簡単に私が感じるままに書いていますから、
専門的なことは専門書におまかせすることにして、
魂を子育てのいう観点から少し書いてみようと思います。

魂はあくまでも自分で育てていくものです。
私たち大人は、あくまでも子育てと同様に
支援していくことを考えていけばよいのですけど
何をしたらよいのかわからないと思うのではないかと思います。
そのことについてはかつて日木流奈さんのことを
思い浮かべて書いた詩“子どもたちが幸せを感じるとき”を
読んでいただきたいと思います。

子どものために完璧な環境を備えようとは
考える必要はないんです。
どんな環境にあっても子どもは育ちます。
たとえば、離婚家庭であっても、シングルマザーの子であっても
または夫婦関係がうまくいっていなかったとしても、です。
ただ、現実が厳しければ厳しいほど
親たちのストレスをどう処理するかが、大切になってくると思います。
自分の中でうまく処理することができればよし、
それを子どもたちにぶつけるようなことは避けてほしいものです。
子育てとは自分育てであるということ
そのものにつながってきますよね。





anneちゃん教育を語る その10


〜生と死〜

いつのまにか、家庭が分業化されてしまいました。
かつては、赤ちゃんが誕生するのも、
年老いて死を迎えるの家庭の中に存在していました。
ところが、今は違います。
赤ちゃんは病院で生まれ、へその緒を切られてまもなく
新生児室に入れられてしまいます。
年老いた人々は家庭で見取られるのではなく、
病院や施設において生涯の終りを迎えることが
多くなってしまいました。

その命の重みがいつのまにか、
家庭の中では経験できなくなってきました。
その代わりに映像により、人々の意識は
操作されるようになりました。

本来経験というものが人を育てていくのですけど
知識により人が育つものだという思い込みが、
蔓延しています。
テレビやゲームが子どもたちの感性を
麻痺させていきます。
また架空現実の世界がどんどんと入り込み、
いつのまにか自分にとって都合のよい世界が
現実だと思い込んでいきます。

生きるとはどういうことなのか、
死ぬとはどういうことなのか、
それを自分で認識する以前に
ただ現実逃避のために死を選択する人々・・・
痛みというものに鈍感になるあまりに
無視をするという立場で
いじめに関わってしまっているということさえ、
わからなくなっている人々・・・

死を見つめることなしに、
生の価値を知ることはできません。
そして、生の有難さを感じることもできません。
生きることに意味は必要ないのだと今は思います。
生きていることそのものが、目的なのですから。





anneちゃん教育を語る その11


〜自分を振り返る〜

子育ての一番のコツは、
自分を振り返ることにつきるのではないでしょうか?
自分がどのような子育てをされてきて、
どのように感じたか・・・・それを元に
自分の子育てを行うのが一番のコツのように思います。

けれども、何も考えずに親からされてきた子育てを
子どもにしてしまう方もおられます。
それが自分にとって、辛いものであったにも関わらず、です。
もしくは、それが子どもをスポイルするものでしか
なかったとしても、です。

自分がどう感じるか・・・
それを振り返ることなしに自分の体験を
よいことにせよ悪いことにせよ、
生かすことはできません。
これは外から入ってくる情報に関しても
同じことが言えるんだと思います。
誰かが言っていたことが、
本当なのかどうか、吟味する。
誰かがしていることが許されてよいものかどうか、
自分にあてはめて考えてみる。

イエスは、こう言いました。
自分がして欲しいと思うことを他の人にしてあげなさい。
それが愛の基本です。
けれども今、人々はその“自分”というものが
わからなくなりつつあります。
ですから、自分を平気で傷つけ、また人をも
傷つけることができてしまいます。
まずは、自らを知り、自らを愛しましょう。
それが子どもたちを愛することにも通じてきます。





anneちゃん教育を語る その12


〜ルール付け

我が家にはパソコンは、5台あります。
子どもたちも、そのパソコンを使うことが
許されております。
ただ、ネットはワイヤレスの無線ランを私と共有しています。

子どもたちは子ども部屋が欲しいというのですけど、
2階は、弟が占領しているので
子ども部屋が取れないんです。
ということで居間に机があって、
本来客間であるスペースに子どもたちは寝ています。

でもその分様子が見れますものね。
居間は、みんなが自由に出入りするので
何をしているかまるわかり。
合間をみつけてゲームばかりしている長女の
姿も必然的に目に入ります。
本格的な受験勉強のシーズンになったら、
隣の客間のテーブルで勉強するくらいで
十分でしょう。
なにしろ、机の上はものおきですから(笑)

これが子どもの部屋が確保されていたら、
そこで何をしていてもわからない。
夜9時も回った時間に友達とチャットをしていたとしても
見えなかったりするのでしょうね。
長女が小学生の頃にそういうことがあったんです。
あの頃ちょうど長崎でネットが関係した小学生の
事件があった頃・・・
同じ学年だった長女もネットにはまっておりました。
夜9時には就寝をモットーにしているのに
9時を回ってからチャットで待ち合わせ、だなんてとんでもないと
私は思ったのですけど、
世間の小学生の就寝時間はもっと遅かったのですね。
親と一緒にドラマを見ているから、親も早く寝ろとは
言わないようになっているらしい・・・

本来ルール付けられた生活の中で、
社会生活の基本というものを身につけていくべきところを
そういうものが身につかないような生活をしていたりするのは
どうかな、と思ったりもしましたね。
かういう私もルーズさが子育てに反映している部分も
多々あります。
彼の方が、食事のマナーにうるさかったり、
時間にルーズなことを怒ったりもします。
でもそういう小さなことのつみかさねが
大切なのでしょうね。





anneちゃん教育を語る その13


〜ゲームの功罪〜

ゲームがよいか悪いかということを
お話しようとしているのではありません。
ちなみに、うちの次女はパソコンのキティちゃんのゲームを
したくて幼稚園の頃、一生懸命字を覚えました。
そんなふうにして学習意欲を高めた経験は、
今も生きていて、我が家では、「宿題はもうしたの?」と
聞くことはあっても「勉強しなさい」という言葉は
必要がないんです。

要するにゲームもネットと同様に道具なんですね。
その道具をいかに用いるということが
大事になってくるのだと思います。
うちの長女の場合は小学生になった頃、
友だちが持っているゲームにはまりました。
我が家ではパソコンでゲームをするだけで、
携帯できるようなゲームは与えていなかったんです。
すぐ隣にある市営住宅は、かぎっ子が多かったためでしょう。
携帯のゲームを片手に外でも遊んでいる子が多くて
小学校の懇談でもそういうゲームのことが
話題にのぼりました。

時間を決めて、その時間内だけゲームをさせているという
家庭もあれば、
親がゲームが好きだからということで放任状態の中で
ゲームをしている子どももいました。
私の友だちの家では、子どもの友だちをみんな呼んで
家でゲームをさせているといっていました。
少なくとも親の目の届くところでしている方が、
問題が少なくてすんだようです。
長女の場合は、親が与えなかったゆえに
友だちの家に入り込んでゲームをさせてもらっていたようです。
そのうち私が買い与えることはしないのですが、
クリスマスのプレゼントや誕生日のプレゼントとして
ゲームを手に入れるようになり
今では自分でお小遣いをためてゲームを買っています。
ありがたいことにゲームに夢中になりすぎて、
時間にルーズであると、「ゲームをこわすぞ」という
厳しいお言葉が出てきますから、
度がすぎるという手前でストップできているようです。
次女はというと、友だちがゲームばかりする子だと
それもおもしろくないらしくて
「今日は遊ばない」と断っているんですんね。
次女もゲームはいくつか持っていますけど
はまり方は人それぞれのようです。

私自身は、「お母さんはゲームは好きじゃない」と断言しています。
いえね、ゲームが嫌いだというんじゃありません。
むしろゲームではまると際限なく時間を費やして
過ごしてしまうことが惜しいというのが本音です。
〜してはいけません、という代わりに
ゲームの付き合い方を教えていきたいというところなのかもしれません。
これはたんにゲームとの付き合い方のひとつに過ぎません。
でもそういう付き合い方というものを
考えていくことが、ゲームにおいては大切なことのように思います。





anneちゃん教育を語る その14


〜マインドコントロール〜

マインドコントロールというと
悪いイメージがつきものですけど
実際のところ、日常のなかに
存在しているものなんですよね。
プラス思考もマインドコントロールの一つです。

けれども問題になってくるのは、
無意識のうちにマインドをコントロールして
しまっていることです。
子育ての場合にはとくにその無意識が
害を及ぼしてしまいます。

何か事件を起して、
「こんな子に育てたつもりはない」という親が言います。
実は、親がこんな子に育てたことに気づいていないのが
一番の問題なんですよね。
見た目がいい子なのがよいのではありません。
子どもたち自身が自分をコントロールできる
ように育っているかどうかが問題なのです。

それらは言葉では教えられません。
子どもが自分の体験を通して
体で学んでいくことなんです。
買ってもらえないことを我慢すること、
そういう体験も子どもたちには
必要なんだということなんですよね。
それと同時に自分がやりたいと思うことを
我慢するという体験も。
とはいうものの、ただ我慢をさせられただけでは
爆発してしまいますから、
自分で我慢するということをも覚えていかないといけません。
自立する大人になっていくためには、
周りにさせられていい子になるのではなく、
自分で自分をコントロールすることを
覚えていくことが必要なんですね





anneちゃん教育を語る その15


〜アダルトチルドレン〜

母原病、アダルトチルドレンなど一時期
子育てに関わる本が持てはやされました。
アダルトチルドレンの本は興味を持って
ちらり読みました。
けれども日本人の子育てはアダルトチルドレンを
生んでしまうというような文章をみて読むのをやめてしまいました。
アダルトチルドレンの症状を自分にあてはめるのを
やめたということでもあります。

それはかいつまんでいうとこういうことです。
日本人は、子どものプライドを育てることをしないというのです。
プライドというと“プライドが高い”という悪いイメージを
思い浮かべてしまいそうですけど、
実は自尊心というものを意味しています。
自尊心とは、自分を尊ぶ心です。
私が私であることをありのままに認められること・・・

“私は私のままでいいんだ”と精神世界で一生懸命に言い聞かせるのは、
実は子ども時代に他と比較されてお前はダメな子なんだ、と
言われるような子育てをされた人々の
自尊心が傷つけられたままだから、といえるんですね。
そのような大人が、子どもの自尊心を育てられるかというと
それもまたむずかしいのですよね。
ですから、母に原因があるといわれてもこまるわけなんです。
その母が育ちきれていないのにどうして、
子どもたちを育てることが出来るでしょう・・・

私たちができることは、
親自身が成長していく様を子どもに見せることなのだと思います。
完璧な人はいません。
したがって完璧な子育てというものもありません。
あるのは、人が人として生きること、
人は成長していく姿というものを子どもの目の前で
見せていくことではないでしょうか。